唐津の建物に見られる優美なデザインは、明治~大正時代に炭鉱がもたらした町の繁栄を物語っています。本町の旧唐津銀行は、近代日本を代表する建造物を数多く設計した辰野金吾(たつのきんご)が監修。日本風にアレンジされたイギリスのクイーン・アン様式が特徴です。
また、辰野金吾は、東京駅丸の内口駅舎や日本銀行本店の設計も行っています。
辰野金吾と同じ唐津出身の曽禰達蔵(そねたつぞう)が監修した妙見の旧三菱合資会社は、佐賀県に残る数少ない木造洋風建築物。「肥前の炭坑王」こと高取伊好が住まいとした旧高取邸も、能舞台や欄間など見どころ満載です。
唐津のシンボルである唐津城は全国でも珍しい海に面した城。天守閣から望む海と虹の松原のパノラマは圧巻です。天下人豊臣秀吉が築城し、黒田官兵衛が築城総奉公を担当したとされる名護屋城は、文禄・慶長の役の拠点となり、周辺には全国から130を越える諸大名が招集されました。
城跡に隣接する名護屋城博物館では、スマートフォンを活用する「バーチャル名護屋城」で当時の城の様子を臨場感たっぷりに体験できます。唐津が城下町として栄える一方で、呼子は捕鯨で賑わっていました。捕鯨業で財を成した中尾家の屋敷は、江戸時代の絵画「小川島鯨鯢合戦」にも登場しています。
中世にちなんだ地も多数存在する唐津。唐で密教を学んだ空海が帰国の際に刻んだとされる鵜殿石仏群は、真言密教の信仰の場となりました。大小60あまりの磨崖仏は風化による影響が少なく、繊細な彫刻跡や色彩を見ることができます。
岸岳城(きしたけじょう)は、上松浦党の一族・波多氏が居城。戦国時代には、ここで上松浦地方を支配するまでに成長しました。城跡の苔むした石垣などからは、波多氏の栄枯盛衰を偲ぶことができます。
佐用姫という美しい娘と、豪族・大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が紡ぐ「松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説」。唐津には、この伝説にちなんだ地名や言われが各地に残っています。唐津随一の景勝・鏡山は、佐用姫が領巾を振り名残を惜しんだことから「領巾振山(ひれふりやま)」と呼ばれ、万葉集では山上憶良(やまのうえのおくら)が和歌を詠んでいます。佐用姫が生まれたとされる厳木町にある道の駅厳木では、高さ12mの佐用姫像が我々を出迎えてくれます。
「魏志倭人伝」にクニのひとつとして記載されている末盧国(まつらこく)は唐津にあったとされ、原始時代の重要な文化財が多数発掘されています。菜畑遺跡(なばたけいせき)は、日本最古の水稲耕作遺跡。末盧館では、菜畑遺跡の出土品や資料の展示に加え、竪穴式住居や水田などが復元されています。
また、前方後円墳の久里双水古墳は、3世紀末~4世紀初頭に造成された古墳と推測されています。ほかにも、西唐津海底遺跡などからも、貴重な土器が発見されています。古代の森会館では、唐津の主要な遺跡から出土した遺物が時代別に展示されています。